8/27は宮沢賢治のお誕生日でありまして、今年は宮沢賢治生誕120年でありました。
せっかくなので、この日に賢治を触れるには何か意味があるんじゃないかと思い、この日に演劇的に賢治に触れ合おうとKnowersの演劇ワークショップで宮沢賢治を取り上げてみましたよ。
宮沢賢治のことで皆さんどのくらい知ってるのでしょう。
今回参加された方々も認識は多様で、賢治に感銘を受けて、普段から賢治の言葉に家族で触れ合ってる方や、岩手に学生時代、過ごしていて、賢治という存在がどことなく身近にある方。
名前は知ってるし、いくつか作品は知ってるけど、映像などで誰かが作って賢治の作品を観た経験のが多い人。
みなさん、認識は様々・・・
私は正直、大人になるまで、教科書に載ってる「やまなし」や「銀河鉄道の夜」、あと有名な「雨にも負けず・・・」の詩の一説しか知りませんでした。
しかし、大人になって、改めて賢治のいろんな作品に出会い、言葉にちゃんと向き合って触れることで、賢治の懐の深さ、その時々で語りかけてくれる言葉の強さ、優しさを知ることができたので、まだまだ、私も勉強中の身ですが、みなさんと一緒に、短編の「土神ときつね」を読んでいくことにしました。
どんな話かといわれても、いろんな捉え方があるので、ざっくり言うのは難しいことですが、綺麗な一本の女の樺の木と 好きな樺の木のために嘘をついてしまう狐と、狐の嫉妬に苦しむ土神のお話であります。
男女の恋愛に置き換えて、読まれることも多い作品なのですが、読む方にとっていろんな関係性で捉えることのできる作品だと思っていて、みんなそれぞれ持ってる感情が美しい景色の中で渦巻いていておもしろい作品・・・と今回の参加者の一人がおっしゃてましたが、私はまさに この渦を巻くという表現がしっくりくる作品だと思いました。
今回のテーマのひとつで、言葉を立体的に組み立てるみは・・・とういうものがありました。
実は言葉には方向性というものがあります。
これをひとつづつ捉えていくと、すごく細かいのですが、言葉をひとつひとつ立体的に組み立てていくと具体的な表現に繋がるのです。
「土神ときつね」の冒頭はこんな風に始まります。
一本木の野原の、北のはずれに、少し小高く盛もりあがった所がありました。いのころぐさがいっぱいに生え、そのまん中には一本の奇麗きれいな女の樺かばの木がありました。
一見、黙読すると、なんとなく分かったような感じがしますが、これを声に出すといろいろ、表現として立体的にするには、ひとつ、ひとつ具体的にしていかなければなりません。
まず、「一本木の野原の北のはずれ」ってどこかいな?ということです。
実は一本木というのは岩手の地名なのですが、岩手にゆかりがある人でないと、ピンくる人は少ないかもしれませんが、読む手はここがどこなのかイメージすることが大事なのです。
ここが寒いのか、暑いのか、湿気ているのか、乾いてるかで、声の出し方が変わって来ます。
「一本木の野原の、北のはずれに、少し小高く盛もりあがった所がありました。」
次はこの一文を読みではどの位置からしゃべっているのかをイメージします。
小高く盛り上がった所から?上空から?1キロ先から?
そして、これは誰に言ってる?
一本木の野原?小高く盛り上がった所に?聞いてるお客さん?それとも、一緒に読んでる読み手の仲間?
こんな風に分解すると、すごくしつこくって大変なのですが(笑)
ここはどこなのか、どういったとこなのか、どこから?誰に?ということを明確にするだけで、なんとなく言っていた言葉が生きた言葉に近づきます。
次の文、「いのころぐさがいっぱいに生え、そのまん中には一本の奇麗きれいな女の樺かばの木がありました。」は最初の「一本木の野原の、北のはずれに、少し小高く盛もりあがった所がありました。」とは違ったことを言っています。
そのまま、同じ調子で言っても間違いではないのですが、最初の「一本木の野原~」といのを1キロは離れた上空として語る場合、「いのころぐさ~」の一文でいきなり視覚的にズームします!
賢治の作品が映像的と言われるのはここで、視点が自在に変化します。
カメラでいうとズームしたり、パンしたり、、、声を出す対象が変わるのです!
なので、同じ息で言ってしまってはもったいない。
特に「。」で区切られてる所は意識して、呼吸も変えると、対象が自然と変わります。
ここでも、「いのころぐさ」ってなんだ?とか「一本の奇麗な樺の木」はどんなんだ?とかどんなふうに奇麗なのか?
とかいっぱい突っ込みどころがあるのですが、表現としてきっと私が大事にしたいところは、「一本の奇麗な女の樺の木」があって読み手がまずどう思ったか?だと思うのです。
きっと、理論的につらつら言葉にできるものではありません。
単純に、不思議に思った。とか嬉しく思った。ちょっと寂しく思った。なんでもいいのですが、そこが、読み手のオリジナリティになると私は思うのです。
特にやりすぎろ。というわけではないのだけど、素直に感じて伝えるということは、それをするまでに、沢山の経験と知識が必要で、読み手の人生そのものな気がします。
宮澤賢治は深く、今回のたったの3時間ではまだまだ潜り込むことが出来なかったけれど、宮澤賢治というものに、改めて出会った参加者のみなさんがひとつ意識すると、読み方がぐっと凝縮される感じが聞いている方にはとてもあって、細かくやることの重要性を再認識することができました。
今回の参加者の感想で、賢治の世界は決してファンタジーの世界に落とし込まないリアリティがしっかりある、というものが、私が賢治にこのところ引っ張られてる何かなのかなぁと気付くことがありました。
私は演劇を通して、どう他者に関わっていくかということを、次回は腹をくくって細かくダイアローグ(対話劇)を用いて、取り組んでいけたら思います。
なんだか、やっぱりここ何回かは、演劇やったことない人とでも楽しく!ということを思っていたのですが、こういうこともあっていいと思うのですが、私が伝えられることって、演劇はマスゲームじゃない。人と人との関わり合いで、いかに人間が出会っていくことなんだと思っているのですが、これって今のオンラインの社会の逆境をいってるのかもしれません。
アナログでも、演劇というものが、ただのエンターテイメントとしてではなく、コミュニケーションという方法でできる限り模索してみようかと思います。
それが、できたときになんだかドラマが生まれそうな気がする。。。
コーディネーター 成田 明加
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