「地域課題がビジネスに繋がる時代が必ず来る」 株式会社たからのやまCEO奥田浩美氏が語る、地域での仕事の生み出し方

Category : EVENTS スタートアップ レポート

 

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2015.1.18 信州スタートアップカンファレンス(主催:長野県・Knower(s))
「日本一創業しやすい環境づくり」を押し進める長野県。
地域でITサービスを展開する、奥田浩美氏(株式会社たからのやま代表取締役、株式会社ウィズグループ代表取締役社長)・吉田浩一郎氏(株式会社クラウドワークス代表取締役社長兼CEO)をメインゲストに迎え、基調講演、3分間ピッチ、長野県で活躍する起業家とのパネルディスカッションを行いました。

【基調講演スピーカー①】
 奥田浩美 氏「たからのやまから見つめる未来」

おはようございます。今日は東京から参りました。いつもは徳島・東京・鹿児島を拠点に活動しています。「たからのやまから見つめる未来」というタイトルでなんですけども、私は「株式会社ウィズグループ」と「株式会社たからのやま」という会社を経営しています。ウィズグループの拠点は主に東京、たからのやまは徳島にあります。

 

まずは自己紹介をさせてください。私はもう25年ほど事業をやっておりまして、3回起業しております。あとはメディアとして地方で活躍している人たちを取り上げる「finder」というwebメディアを2年前から主宰しております。

それ以外にスタートアップ関係のイベント等のプロデュースをしたり、情報処理系の審査委員、IT人材白書の検討委員などを務めております。他に「人生は見切り発車でうまくいく」という本に私が25年事業をやってきたことの中から学んだことを書いています。

 

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いきなりこの写真、これは私が育った環境の写真です。3歳頃だと思うんですが、屋久島の浜辺です。生まれは屋久島ではないのですが、私の父は僻地を転々としておりまして、僻地のエキスパート、つまり誰も行かないところに自分は行くんだと毎回赴任希望地を白紙にして出す人でした。

鹿児島県で赴任希望地を白紙で出すということは、ほとんどが僻地か週に船が2便しかないような島になります。そんな生活でした。

 

今日はビジネスの仕方については一切話しません!

 

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私は今日どうやったらビジネスが作れるかとか、ビジネスのビジョン的なこと、やり方みたいなこと一切話しません。その話については、もっと詳しい方が大勢いらっしゃいますので。

私が今日お話しするのは自分の育ってきた環境、どんな所に産まれても、自分の中に思いがあって課題があって、それがビジネスに繋がるというような時代がこれから必ず来るというお話です。

ですから、私のちょっと過去を振りかえりながら、私が25年やってきたビジネスがなぜどこにどんな芽があって、あんな島の小さな女の子がビジネスをし、世界に行き地方に行きというようなことをお話ししたいと思います。

 

 

転々とした生活の中、15歳で独立を言い渡される。

 

私は、鹿児島県生まれです。この後話しますが、私は屋久島などの多くの島々、ムンバイ、東京、アメリカ、で活動してきて、そして今一番多く足を運んでいるのが地域です。先ほどお話ししたように、私の父は教育がなかなか受けられない場所を転々としていましたので、よく地方にありがちな高校の無い町を転々としていました。

ですから15歳の時に茶の間に呼ばれて、鹿児島市内にある家に妹と二人で移り住み、そこから高校を出て、大学を出て、就職していきなさいと言われました。15で独立です。父は教員でしたので、それほど貧しくはないけれども、潤沢にお金があるわけではありません。子どもは3人いました。

なので、父の給料口座が振り込まれる鹿児島銀行のキャッシュカードを渡されて、この中で、家の兄は寄宿舎に入っていましたので、その3家族がちゃんと暮らしていけるような、ふさわしい金額をおろして使っていきなさいと、仕送りではないですというような生活が始まりました。

ただ15歳からの私は地方でずっと育って、地方でなかなかこうなりたいっていう夢は22歳まで一切ありませんでした。父もずっと一生働くとしたら平等に働ける教員がいいだろうということで、私に教育学部に行きなさいと全てレールを敷かれるような人生 を過ごしていました。

 

しかし既定路線だった教員への道を捨てインドへ。

 

22歳まで私は鹿児島大学の教育学部というところを出ています。そこまでは父に言われるがまま生きてきました。ただ、その時に私の父は誰もなかなか教育が受けられないという場所を転々とした先に、なぜかインドのムンバイの日本人学校の校長になっていました。

つまり小さな学校を経営できる、小さな学校でちゃんとした教育をできるという先に、なぜか海外の小さな日本人学校という道が開けていたんです。ですから私は小さなことをコツコツやっていればその先に突拍子もないポンッという瞬間があらわれるっていうことを経験しています。

私が大学4年の時に鹿児島大学を卒業して、鹿児島県の教員になることが決まりました。決まりましたというか、それが私に与えられた課題だったので、それをそのままこなすだけでした。という時に父がインドに行っていて、私は教員採用試験が終わった夏休みにインドに行って、3日目くらいで、「このまま教頭になって校長になってという見えてる人生って嫌だな」と思いました。

私は人生で初めてここで自分の意志で何かを選択するということをしました。それが22歳で教職を捨ててインドに渡ろうと思ったキッカケです。

 

日本に帰国して出会ったIT業界。

 

22歳から24歳までインドにいて、社会福祉の修士を取りました。そして25歳で日本に帰ってきた時、これだという就職がなかったんです。インドでは社会の仕組みを変えることが社会福祉、ソーシャルワーカーの役目であると学んだのですが、私の力不足もあってか、私が思い描いていた社会を変えるんだという就職先には出会えませんでした。

そんな時に出会ったのはITの業界でした。1989年ですからインターネットという言葉のなかった時代です。国際会議を運営する会社に腰掛け的に入ったのですが、それはまずは海外と繋がろうと思ったからです。そこで配属されたのが、技術系の国際会議の運営する部署で、次世代電子基礎技術とか次世代通信などの国際会議に触れることになります。これがITとの出会いです。

そこで日本と海外をつなぐ仕事をして社会人としての第一歩を踏み出しましたが、まだ何が何だかわからない時代でした。しかし、先程お話した「社会の仕組み変えるんだ」という言葉を技術系の会議なのにやたらと聞くんですね。私は技術はさっぱりわからないけど、ほとんどの人がそう言っている場に立ち会っていたので、この世界に飛び込んでみようかなと思うようになりました。

そして1990年になると、技術系の会議が次々に日本に入ってきました。私は海外に行きその会議を日本に誘致をする仕事をしていました。アメリカで成功した会議が日本に来ると聞くと、そこに連絡を取り、日本でやる時は事務局をやらせてくれないかとお願いしたり、技術系の国際会議に技術に特化した同時通訳の派遣事業をしたりしました。

社会に必要とされるのであればそこに飛び込んでみようという生き方を始めたのもこの26歳の頃でした。

 

 

どこにいても仕事ができる環境を作り出す。

 

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そこから10年は面白いように仕事が次から次へと入ってきて右肩上がりの1990年代が過ぎていきました。しかしこの時代は私としては面白くない時代で、頑張ってビジネスを見つけに行けばそこにある時代だったからです。

そして2000年になって、時価総額や売上とか数字が右肩上がりの状況を私は幸せに感じるんだろうかと10年たって思っていました。そこで1回リセットしようと娘を出産をしました。そもそも人間にとって何が幸せなんだろうということをしっかり考えることができ、とても良い環境に身をおくことができました。

自分の課題と想いがビジネスになるという話を最初にしましたが、やっとここで繋がります。私は自分の子供を抱えて大きな国際会議のコーディネートをしてきたのですが、子供を抱えたまま会議には出れないですよね。

なので、2001年にどこにいても仕事ができる環境をつくろうと思いました。なので、そういう環境をこれからつくっていける企業のカンファレンスをサポートしていこうと決めました。

ですから、自分がサポートする会社というのは、例えばGoogleのように、クラウド上に情報があって私が生身の身体を運ばなくても仕事ができる、あるいはテレビ電話でつながって仕事ができる、ということを実現できる会社です。このような会社に営業をかけて、そのIT事業をマーケティングや会議という形でサポートしてきました。

実際に2001年から自分がどこにいても仕事ができるようにということを目指してやってきて今は実はオフィスが5ヶ所あるんですが、どこにも社長の机はないです。そもそも机を置いたら行かなきゃいけないので、行かなきゃいけない場所はつくらない、いたい場所にいれば良いじゃないかと。

ただ、これが絶対に正しいとは思っていなくて、生身の人間がなければ絶対にできないことあるのも事実ですし経験上知っています。例えば、何かの事業を立ち上げる時、着火する瞬間は絶対に生身の人間同士が良いと思っています。ただある一定のスピードがついて、仕事が進み始めている状況ではその場にいなくても良いと。

 

自分の課題が社会の課題に、そしてビジネスに。

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そしてまた人生に関わる転機が訪れます。鹿児島の実家にいる父が介護認定4までいきまして、寝たきりの状態になってしまったんです。それを母が診る状態で、私も月に3,4日は実家に帰るという生活が始まりました。そこで直面したのは介護によっていろんなことを諦めなければいけないという社会の現実です。でも、じゃあそこをビジネスにしてしまえということなんです。

そこで、高齢者が離れていても繋がれる仕組みをつくる、自分自身が地方に行ってもどこでも仕事ができる仕組みをつくる「株式会社たからのやま」という会社を立ち上げました。ですから、今までみたいな事業の作り方ではなくとも、自分の課題が社会の課題になるものであればそこからビジネスが生まれるというような時代が来ているのだと思います。

まずは自分の足元にある課題を地域レベルに広げて、次に国レベル、社会レベル、世界レベルに広げていくと、おのずと世界で必要とされる課題が見つけられてそれがビジネスに繋がっていく時代がまさに来たんだと思っています。なので私が地方で講演する際は、ビジネスの作り方ではなくビジネスとなる課題の見付け方なんです。

しかも、その中で言いたいのは、課題をかっこ良く解決してビジネスに繋げようということです。かっこいいと思うことを一番にやろう、これが本当に大事です。なぜなら、かっこいいことを言ったり、かっこいいことをやろうとすると周囲が必ずそんなことできるわけないとか、そんな家の出で何言ってるのとか、あんたの家お金もないじゃんとか次々に出てきて潰されそうになります。

どうせ潰されそうになるなら最初に掲げるのは一番かっこいいもの、誰にでも誇れるものを出していくべきだと考えています。

 

地方で世界最先端の課題を拾い上げる。

 

私は東京では株式会社ウィズグループで最先端のITを広める仕事をしていますが、それよりもこれからは地方で新しい課題を見つける場を作ることのほうがビジネスの中心になるのではないかと思っています。しかも現時点での自分がかっこいいと思えるものが「共創の場づくり」です。

徳島に地域のお年寄りが抱える問題をすくい上げて、それをお茶の間で解決しようとするものです。お茶の間で使うものはお茶の間でつくろうということです。これが昨年立ち上げた徳島県海部郡のITふれあいカフェです。人口7000人の町で過疎化が進み限界集落がいくつかあるような町です。

カフェといいますがお茶が飲めるわけではなくて、実際には町の方々がタブレットやスマホで何か悩み事があったら私達がいる時間だったらいつでも来て下さいねという場です。

 

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来てもらった方の個人情報は取らないのですが、そこでやりとりされる会話や家族背景、どんなものがあれば便利なのかなど、これらをカルテにしています。さらに徳島だけでなく鹿児島や広島でも行っていき情報を蓄積していき製品開発に活かしていっています。今年は、製品開発だけでなく自社サービスも立ち上げようとしています。

最初は、共創の場つくりを広めていくためNTT docomoの役員ところに持って行って一緒にやりませんか?とプレゼンしに行ったら「はぁ?」って言われてしまったのですが、場所を作ってやり始めるといろんな案件が集まってくるようになり、NHKの取材も来ていただけるようになりました。

 

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具体的に企業の開発のサポートは何をしているかというと、例えばGoogleグラスのようなものをお年寄りにお茶の間で使ってもらって実際何に使えるのかを調べることが出来ます。

何に使えるのか、なぜこれがあるのか、この機能は必要なのかなど、エンジニアとは違う視点からの意見が集まり、作る前の段階で、この場から逆算して製品開発に役立てることができるという流れです。

 

 

グローバルを目指すなら、アウェイな場所・違和感のある場所に身を置こう。

 

さて、先程から何度も申し上げている「足元に世界最先端の課題」がありますよという話なのですが、地域からグローバルを目指すにはどうすれば良いのか県の担当者の方が目標として必ずおっしゃります。私は地方からグローバルを目指すことに反対は一切しません。

しないんですが、地方からグローバルを目指す人達がそもそも隣街に行ったり東京に行ったり他県に行ったり海外に行ったりしないのに何を言う、とよく思います。

つまり、グローバルを目指すということは少なくとも移動できる体力と精神力行動力が必要なんです。なのに地方だけ出ずにそこに集まってずっと掘り起こしていくような作業をしていてもダメなんです。地域だけにこだわらず、移動しながらどこででも成果を出せるような状態であることが大事です。

そこで、グローバルを目指すビジネスをつくろうとしたときに私が一番必要だなと思うのは「アウェイな場所・違和感のある場所に身を置こう」ということです。ここが地方の人は苦手ですよね。なかなかアウェイな場所に移動いない気質があるように思います。

それから、皆さんはこの1年で新たに何人の人に会いましたか? ちょっと思い浮かべてみてください。私の場合は毎年最低2000人くらいの方には会っています。でも人数もさることながらも幅の広さも大事なのではないかと思います。どれだけ自分と違う地方の商習慣や文化を許容できるか、違う感覚の人と一緒にいられるかという話です。

 

 

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私は、ここにあるように去年1年で感覚の違う人たちとたくさん出会う場を設けてきました。中学生の娘と女子中学生向けのプログラミング講座をやったり、20-30代向けのサロンをやったり、高齢者向け、エンジニア、スタートアップなど、本当に幅広く会っています。

何か新しい課題を見つけて世界に打って出るという際に、自分と一番感覚の違う人と合う努力をしていますか、ということをいつも地方で申し上げています。そういうことを考えるキッカケとなったのがインドでの経験です。これがインドに留学していた22歳の時に現地で出会った日本人です。

 

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左の列の職種の方々(領事、銀行員、商社マン、エンジニア、、国連議員、◯◯の妻)は、どうやればなれるのか想像がつきます。私が面白いなと思ったのは右の列(布教僧侶、シタール奏者、哲学者、インド舞踊ダンサー、映画監督、宝石商)なんです。しかも右の列も左の列も同じ大学を出ていました。銀行員もシタールの奏者も同じ神戸大学を出ていたんです。

地方にいて、大学までは自分の想像のつく所にいても、その先ちょっとしたキッカケで人はいくらでも動けるんだということを学んだんです。あと更に、これだけたくさんの職種の人と出会うと同じ日本人でありながら日本人ってやっぱり面白いし、いろんなことにチャレンジできるんだと感じました。

それにある地域にこれだけの人がいたら面白い地域になると思いませんか? これから何かグローバルにやっていくなら、自分一人が多様な人と出会える力が必要だと思います。

 

地方とそれ以外の地域を結びつけてビジネスを。

 

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この動画は1月5日に朝日新聞に掲載された「手のひらに茶の間」という、おばあちゃんがLINEを使って都会にいる娘とやり取りをしている記事なんですが、ご覧になった方いらっしゃいますか? 実はこれ私の母なんです。

こうした両親の背景から先程話した高齢者でもITを触れるようになると社会がかわるのかなと思い始めました。自分の家の課題を解決できれば隣の家の課題も解決できて社会がかわっていくのではないかと。母は介護しながら孤独と闘っていて、これが田舎の老々介護の現状なんです。

それをどう解決させるか、こういうことがこれから大事になっていくのかなと思っています。こんな背景からつくろうとしているサービスがありまして、家族単位のコミュニケーションを促進するサービスです。それは私がつくるわけではなくて、もともと東京でこのプロジェクトを進めている経営者の方がいらっしゃって、だったら鹿児島や徳島の場所を使ってもらい共につくっていきませんかというものづくりが始まっています。

地方に仕事がない、という話をよく耳にしますが、地域の課題を見つけることによって仕事をつくれると私は思っています。課題を次々に世の中に知らせるために地方に「たからのやま」という会社をつくり、それを解決できるのが東京にある「ウィズグループ」なんです。そこに意味があります。

これからの地域のビジネスの中核は、地域だけでつくる時代ではなく、地方とそれ以外の場所を結びつけてつくっていく時代になるのではないかと思っています。

ありがとうございました。

(書き起こし:柚木 真)

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